3つの仕上げ方を同じ発言で比べる
言葉の定義だけではイメージしにくいので、商店街の老舗を取材した録音の一部を、3通りに仕上げてみます。
- 素起こし
- 「えーと、あの、うちの店はですね、えー、もともとは、あの、祖父が、祖父が始めた店で、はい、(笑)戦後すぐですね」
- ケバ取り
- 「うちの店はですね、もともとは祖父が始めた店で、戦後すぐですね」
- 整文
- 「私たちの店は、もともと祖父が戦後すぐに始めたものです」
素起こしには、言いよどみ、言い直し、相づち、笑いまでがそのまま残ります。ケバ取りでは、意味を持たない「えーと」「あの」や言い直しの重複を取り除きますが、「ですね」のような話し手の口癖や語順はそのままです。整文になると、文の形そのものを書き言葉に寄せ、情報の順番も読みやすく並べ替えます。
「ケバ」とは、紙や布の表面に立つ細かい毛羽のことで、文章の中の余計な音を毛羽に見立てた業界用語です。テープ起こしの現場で生まれた言葉なので、言葉の背景が気になる人はテープ起こしと文字起こしの違いもあわせて読むと理解が深まります。
素起こしが必要になる場面
素起こしは、話し方そのものが分析の対象になる場合に選びます。いちばん手間がかかる仕上げ方ですが、情報を一切削らないという点で代わりがききません。
- 会話分析や言語学の研究:沈黙の長さ、言い直し、相づちのタイミングが研究データになります
- ユーザーインタビューの分析:「えーと……」と迷った箇所が、使いにくさのサインになることがあります
- 発言内容をめぐって後から争いになりうる記録:言った・言わないを確認する資料として、手を加えない記録が求められます
- 方言や話し言葉の資料づくり:地域の聞き取り調査などでは、言い回しをそのまま残すことに価値があります
研究で使う場合は、沈黙や重なりをどう記号で表すかといった表記の約束事も重要です。研究における文字起こしの表記ルール (英語)で代表的な考え方を紹介しています。
ケバ取りが向く場面
ケバ取りは、最もよく使われる「標準的な」仕上げ方です。発言の内容と話し手の言葉づかいはそのまま残しつつ、読む人の邪魔になる音だけを取り除くので、記録としての正確さと読みやすさのバランスが取れています。
社内会議の記録、取材メモの共有、講演の記録、調査報告書の資料編などは、ケバ取りで十分なことがほとんどです。依頼するときに仕上げ方を指定し忘れると、業者によってはケバ取りを標準として扱うこともあるため、希望がある場合は明記しておきましょう。
どこまでを「ケバ」とみなすかは人によって揺れます。「まあ」「なんか」「やっぱり」は口癖として残すのか、取るのか。「はい、はい」という相づちは残すのか。作業を始める前に、次のような簡単な基準表を作っておくと、複数人で分担しても仕上がりがそろいます。
- 必ず取る:「えー」「あのー」「えーと」、同じ語の言い直し(「祖父が、祖父が」)
- 原則残す:「やっぱり」「なんか」など意味に関わる可能性のある語
- 記号で示す:笑い(笑)、聞き取れない箇所[不明 12:34]
整文が向く場面と、やりすぎの落とし穴
整文は、文字起こしを読み物として公開する場合に選びます。Webのインタビュー記事、講演録、社内報、書籍の対談ページなどです。主語を補い、ねじれた文を直し、話があちこちに飛んだ部分を順序立てます。
ただし、整文は「編集」に近い作業であり、やりすぎると発言者の意図から離れてしまいます。特に注意したいのは次の点です。
- 意味を変えない:「たぶん来年には出せると思います」を「来年発売します」と書くと、確度が変わってしまいます
- 発言を足さない:話の流れを良くするために、言っていない説明を付け加えるのは避けます
- 口調を消しすぎない:関西弁の経営者の語り口を標準語に直すと、人柄が伝わらなくなることがあります。どこまで残すかは編集方針として決めておきます
- 数字と固有名詞は録音で確認する:整文の過程で読みやすさを優先すると、細部の誤りを見落としやすくなります
公開前に発言者本人に原稿を確認してもらうのは、取材記事では一般的な手順です。整文の度合いが大きい場合ほど、この確認が重要になります。インタビューを記事にするまでの流れはインタビュー文字起こしのやり方で詳しく説明しています。
AIによる文字起こしはどの段階に近いか
AIの文字起こしは、3つのどれかにぴったり当てはまるわけではありません。Whisper系の音声認識モデルは、「えー」「あの」といったフィラーを省いて出力することが多いと言われており、見た目はケバ取りに近いテキストになりがちです。ただし、フィラーが残る箇所もあれば、言い直しがそのまま並ぶ箇所もあり、基準は一定ではありません。
そのため、素起こしが必要な研究用途では、AIの出力を素起こしとして扱うのは危険です。省かれた言いよどみや沈黙を、録音を聞きながら書き足す必要があります。反対に、整文を求める用途では、AIの出力はあくまで材料であり、文の組み立て直しは人の仕事です。
また、無音や雑音の部分に、実際には話されていない文が出力されることもあります。こうした現象についてはWhisperの「幻覚」についての解説 (英語)が参考になります。英語圏での似た区分(verbatim と clean verbatim)との対応は逐語と整えた文字起こしの比較 (英語)で整理しています。
mydublyの出力をどの仕上げに使えるか
mydublyは、動画や音声から文字起こしを作るブラウザ上のツールで、音声認識はWhisperをベースにしています。出力は前述のとおり、素起こしでも整文でもない「聞こえたままに近い下書き」です。ケバ取りや整文を自動で行う設定はなく、アプリ内でテキストを編集する画面もありません。仕上げは、ダウンロードしたテキストをWordやテキストエディタで編集して行います。
動画の場合の操作は次のとおりです(画面は英語です)。
- 「Drop a video here」に動画ファイル(MP4、MOV、WebM、MKV、M4V)をドロップします。
- 「Full translation output」のスイッチをオフにすると、文字起こしのみのモード「Timestamped transcript only」になります。話されている言語は自動判定されます。「Select language」では話されている言語と同じ言語(日本語の動画なら Japanese)を選ぶと、翻訳なしの文字起こしになります。
- 「Transcribe video」を押し、完了したら「Download transcript」(時刻なし)か「Download timestamped transcript」(時刻付き)で保存します。
30分のインタビュー動画を文字起こしする場合:1分1クレジット × 30分 = 30クレジット($0.03)。3分の短いコメント動画は最低料金の5クレジットになります。
時刻付きのテキストを使えば、素起こしに書き足すときやケバの判断に迷ったときに、該当箇所の録音をすぐ確認できます。動画からの文字起こし全般については動画の文字起こしページ (英語)や日本語動画の文字起こし (英語)をご覧ください。
よくある質問
文字起こしを外注するとき、仕上げ方を指定しないとどうなりますか?
業者ごとに標準の仕上げ方が異なるため、想定と違う原稿が届くことがあります。多くの場合はケバ取りが基準になりますが、研究用で素起こしが必要な場合や、記事用で整文が必要な場合は、必ず事前に伝えましょう。サンプルとして数行の見本を渡すと認識のずれが防げます。
ケバ取りで「はい」や「うん」の相づちは消すべきですか?
目的によります。議事録や記録用なら、話の流れに影響しない相づちは取り除くことが多いです。一方、インタビューで相手が同意したかどうかが重要な場面では、「はい」を残しておくほうが安全です。迷う場合は基準表に書き込んで、作業者の間で統一しておきましょう。
整文した原稿は「発言の引用」として使えますか?
整文は文の形を変えているため、厳密な意味での直接引用とは言えない場合があります。記事では、発言者に原稿を確認してもらったうえで掲載するのが一般的です。発言の一言一句が重要な場合は、ケバ取りか素起こしの原稿を引用元として保管しておきます。
AIの文字起こしで素起こしを作ることはできますか?
AIの出力はフィラーや言い直しを省くことが多いため、そのままでは素起こしになりません。素起こしが必要な場合は、AIの出力を下書きにして、録音を聞きながら言いよどみや沈黙を書き足していく使い方が現実的です。最初から手で打つより早く済むことが多いでしょう。
表記ルールはどこまで細かく決めるべきですか?
最低限、数字の書き方(算用数字か漢数字か)、聞き取れない箇所の示し方、話者名の書き方、笑いなどの非言語の扱いの4点は決めておくと安心です。媒体ごとの用字用語集があればそれに従います。細かすぎるルールは守りにくいので、迷った箇所を随時追加していく方法がおすすめです。
